昔ブルーハーツが「チェルノブイリには行きたくねえ。あの娘とキスがしたいだけ」と歌っていて、ブルハ好きでもあるはずの友人が、この歌については批判していたのを思い出した。
真島昌利の書いた歌詞をよく読むと、「チェルノブイリで起きていることは、チェルノブイリだけで済むことではない」とも読めるのだが、耳に入ってくる言葉の印象としては、チェルノブイリという場所の忌まわしさが強調されているようにも聞こえてしまう。
こんなことを書くと怒られるかもしれないが、日本の反原発運動にとって、チェルノブイリは酷い場所で、行きたくない、と思えることが楽しかった、ということはなかっただろうか。
そのようなチェルノブイリには、政府の避難勧告に従わない少数の人たちが残り、自給自足の生活を続けていたはずだ。ウィキペデイアでは2003年で三百人の人たちが暮らしていると書かれていたが、今はそれより少ないだろう。
だが、どんなに汚染されても、インフラが止まって不便になっても、家族と別れても故郷を離れられない人たちがいる。そんなふうに大切に思われるチェルノブイリが、恋人とのキスと比較して忌まわしいかのように歌われることは、正直な気持ちの表明でもあるだろうが、悲しく思える。
この歌の「チェルノブイリ」を「福島」に替えてみたら、どんなふうに聴こえるだろう。
「福島には行きたくねえ。あの娘とキスがしたいだけ」
私は福島県民ではないが、こんなふうに福島が歌われたらたまらない。胸が痛くなる。
「恋人との生活が脅かされなければ原発なんかどうでもいいし、脅かされるならば反原発運動を」というふうにも聴こえる。
ときどき反原発運動家にとって、福島は酷い場所であるほうがいいのではないか、と思えることがある。私もそうした発言をしてしまうことがある。
ただ、そんなことだけで反原発運動を否定するつもりもないし、これからも関わっていくつもりだが、反原発に限らず、どんな運動でも違和感を感じたり、迷うことはある。